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政治的なシリアスさや現実の不条理をユーモアで包みこむ「寛容さ」を持たないコメディアンは、逆説的にユーモアの能力をみくびっているし、学識や政治の野暮ったさを「芸」として翻訳する知性すら持ち合わせていないのだと臆面もなく表明して、自らの不勉強ぶりにすこしも気がついていない。
日本社会でまかり通っているいわゆる「芸人」は、話芸の機能、TV番組での立ち位置、舞台での所作ばかりを気にして、芸能界の外側でなにが起こっているのか、本当のところではきっと興味など持っていない。
ヴォードビリアンとしての矜持ばかりを持ち上げて、ただ成り上がるために、ホモソーシャルな世界に浸り、上にこびへつらい、観客に笑われながら観客をあざ笑っている。
彼らが追及する笑いが生み出すものは、瞬間風速的な笑いでしかなく、そこにペーソスや批評は存在しない。これは笑いとしての質が低いと言っているわけではなく、ただただ圧倒的に狭く、息苦しい。その狭さや息苦しさは、どういうわけか「怒り」や「焦り」といった、笑いからはほど遠い悪感情に酷似している。
彼らが求める笑いに必要な人材は、「寛容さ」を持ち合わせた人間などではなく、その悪感情に無意識に同調してしまうような、ひどく歪んだ笑い顔の持ち主なのだろう。
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読書という行為は、あらかじめリベラル・ヒューマニズム的に心が開かれた――つまり、いつでも自分の信念を書き換えることのできる――読者へと向けられた閉鎖性を、パラドックスとして保持している。
テリー・イーグルトンが解釈学の概観として記したのは、そんな明快なスタラテジーだ。彼は文学の問題を神秘主義の祭壇に奉ることをよしとしない。だからといって「文章読解」という意味にとらわれた、頭でっかちな理論的態度にも批判をもっている。彼は芸術や学問の枠に、文学をおさめようとはしていない。重要視して感じられるのは、真正の文学者や哲学者が敬遠して語るところの、有機的統合体としての文学。つまり「社会」の問題に自覚的な部分だ。
文学制度を打破することは、ベケットに関するこれまでとは異なる評論を書けばそれですむというものではない。文学制度を打破することは、文学と、文学批評、そして文学批評を支える社会的価値、それらが定義される方法に、根底からゆさぶりをかけてやることなのだ。
テリー・イーグルトン『文学とは何か』
この、ややアジテート気味の論を、すこしながら心配する向きもあるかもしれないが、むしろ重要なのはその前文だ。
私がこれまでおこなってきた文学理論の解説のなかでつとめて示そうとしたことは、文学理論のなかにはもはや文学観というだけではすまされぬ多くのものが懸けられているということだった――文学理論を特徴づけ、それを支えるのは、社会的現実に関する多かれ少なかれ確定的な読解なのである。そしてこうした読解にこそ、言葉の真正の意味から、まさに罪があるのだ。そう、労働者階級を鎮定するというマシュー・アーノルドの慈父のごとき試みから、ハイデカーのナチズムへと、綿々と続くこの読解に。
西洋の罪、エリート的学問主義の極致に対する、敬虔で自覚的なこの態度は、知性と知性行為の分離をはっきりと意識した、目の覚めるものだ。決して軍人だけが人を殺すわけではなく、学者もまた人間性を剥ぐという意味合いで、知らずに人の心を殺しているのだ。だからこそ、架けられた橋を下ろさないために、われわれはもう一度、アウエルバッハの言葉を借りて、立ち返らなければならない。
さらにはこの書が、われわれのヨーロッパの歴史に対する曇りない愛情を保ちつづけてきた人々を、再び一つに結ぶためのよすがともならんことを。
エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』
偉大なるヨーロッパ人文主義の伝統。最後の光芒のひとり。アウエルバッハが終始学問の立場から記したこの一冊の書物は、なぜか最後にコスモポリタン的視野に立つ言及において締めくくられる。そしてこの言及が、ナチズムの台頭によりドイツからトルコへと追放された中で記された言葉だとわかれば、書物と文学の意味は良くも悪くも変わってくる。
文学はどこまでも、それが言葉をあつかうという一点において、社会からは逃れられない。
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彼らはなにも気がついていないのだ。
自分という存在を見つめる能力が著しく欠けているというのに、
「自分という存在をデザインできる」「いや、するべきだ」と声だけを大きくして、
それが安易な嘘でしかないことに気がついていないのだ。
屈強なレイシストが牛耳る社会はもちろんロクでもないとは思うが、
リベラル・ヒューマニストが無意識に自由の解釈を狭めて猛り狂う姿もまた、
閉塞感しか感じられない。
巷の言説や流行に煽られて、社会運動やヤフコメに参加するのは勝手だが、
誰かが誰かを暴言や力業でねじ伏せようとするのなら、
それは思想の色に問わず前時代的な蛮行であって、
〈革命〉のイメージはいつまでたっても変わることがない。
われわれはもっと考えるべきなのだ。
どうしてそれを思ったか。どうしてそれを変えようと思ったか、を。
〈理想〉は状況を創作することではない。
理想とはきっと際限なく反復されることでしか正体をあらわそうとしない、
その形式そのものを言うのだろう。
長い時間をかけて体と心を削っても、理想に手が届かず人生が潰えてしまうことを、
誰かが声にして訴えるべきなのだ。
「理想に隠ぺいされたり、振り回されたりする人間になってはいけない」と。
「古典的で、矮小で、消極的でも、理想のために賢明な選択をするべきだ」と。
はっきり、正確に。
だからといって、まったく理想を失った人間になっても、いいものだろうか?
ひとりひとりが理想を描けない社会に、生きる価値などないのではなかろうか?
その問いかけはおそらく正しい。
だが今現在、果たして〈理想〉とはいったいなにを表象していて、
どんな言葉に置き換えられるというのだろう?
言葉の管理者たるマスメディアは、
〈恥と批評〉という安全装置を取り外したことで、
歯止めの利かない大量破壊兵器を間接的にシリアの人々に行使している。
理想そのものだったはずのポップ・カルチャーは、
彼らの〈慰みもの〉となることでかろうじて生き延び、
ジギー・スターダストをユーチューバーと大差ないものにしてしまった。
〈恥と批評〉を忘れた言葉。〈慰みもの〉を体よくまとめた言葉。
それらがもたらすものは、たしかに有益であり、たしかに物質的な娯楽ではあろうが、
やはり明日には忘れられて、彼らはまたもや自分の貧しさに飢えはじめるだろう。
見知らぬ世界の見知らぬ他者の言葉が書かれた書物に目を通すという行為は、
ある者にとっては無益に等しいが、
そこには自分とは違う他者の自分が知らなかった世界が広がっていると、
とりあえずは信じることができる。
自分とは違う他者や見知らぬ世界が、
たとえば「他者ではなく自分」であり「見知らぬ世界でなかった」としら、
あなたが本を読まないという事実は、
自分が誰であるかも知ることがないまま死んでいくに等しい行為ではないか。
それを恐怖だと感じない人間に、
社会や生活の〈理想〉が語れるとは到底思えない。
あなたはまず初めに、誰かにではなく自分に問いかけてみるべきなのだ。
どうしてそれを思ったか。どうしてそれを変えようと思ったか、を。
〈理想〉を言葉に置き換えるために、
あなたは本を読み、
世界と自分がどうしようもなく繋がっている事実を知るべきなのだ。
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ディドロの詩学にとって独創性はそれほど重要ではなく、むしろ書物というものが呼応しあい、せめぎあい、他を補いあうものであることが大切だったのである。作家の作業ひとつひとつが意味をもつのは、文化的コンテクスト全体においてである。
自分のつたない思想や感情をゆさぶる決定的な文言が、
いずれかの本にあったと記憶して、
棚から取り出し、いくらページを繰ってみても、
なぜかどこにも書き記されていない。
はたして『砂の本』でも読んだのかと、
いざ考えこんでしまえば、
それは本当に「夢の中で出会った文言だった」のだと、
なぜか確信して、納得してしまう。
書物を読んだときにたびたび起こる、
こうした現象はいったいなんなのか?
「お前の頭がグンバツに良いせいさ!」
皮肉を言われたところで、やっぱり上に引いたような文章は、
なかなか思い出せないし、なかなか見つからない。
記憶をめぐる問題は、つねづね持ちあがるが、
そのほとんどは下らないものだ。
「ハルキストならフィリップ・マーロウだが、
俺なら『ロード・ジム』のおしゃべりなマーロウだ」
「『交通の妨害者』での障害ブイの揺れる灯、
灯台、火山、そして狂気をもよおす波の縦すじ……。
『闇の奥』における「The horror! The horror!」を想起させる」
「――まず、ヘレンがその姉に宛てた何通かの手紙から始めたらどうだろうか。
これは作品の冒頭一行目でありながら、
どこにも属していない不思議な言葉だと言える。
なにがしかの予兆を感じさせはするが、
作者の語りかけと一概に断定するにしても、
物語のはじまりとしてはいささか唐突で、
不作法な言葉に思える」
いくつかの小説と作家について、
無教養な素人が思いつきを語ったところで、
何の意味があるというのだろう?
カラマーゾフの三兄弟のフルネームを言えたほうが、
まだ合コンでモテたかもしれない。
そうこうしているうちに、やっと件の文章が見つかる。
イタロ・カルヴィーノ著『なぜ古典を読むのか』(須賀敦子 訳)河出文庫
ぜひ読んでみてください。