世界は一冊の書物に至るか?

「   」にまつわることを、いろいろと。

ディドロの詩学にとって独創性はそれほど重要ではなく、むしろ書物というものが呼応しあい、せめぎあい、他を補いあうものであることが大切だったのである。作家の作業ひとつひとつが意味をもつのは、文化的コンテクスト全体においてである。

 

自分のつたない思想や感情をゆさぶる決定的な文言が、

いずれかの本にあったと記憶して、

棚から取り出し、いくらページを繰ってみても、

なぜかどこにも書き記されていない。

 

はたして『砂の本』でも読んだのかと、

いざ考えこんでしまえば、

それは本当に「夢の中で出会った文言だった」のだと、

なぜか確信して、納得してしまう。

 

書物を読んだときにたびたび起こる、

こうした現象はいったいなんなのか?

 

「お前の頭がグンバツに良いせいさ!」

 

皮肉を言われたところで、やっぱり上に引いたような文章は、

なかなか思い出せないし、なかなか見つからない。

 

記憶をめぐる問題は、つねづね持ちあがるが、

そのほとんどは下らないものだ。

 

「ハルキストならフィリップ・マーロウだが、

 俺なら『ロード・ジム』のおしゃべりなマーロウだ」

 

「『交通の妨害者』での障害ブイの揺れる灯、

 灯台、火山、そして狂気をもよおす波の縦すじ……。

 繰り返される「mad」「dam」というパロールは、

 『闇の奥』における「The horror! The horror!」を想起させる」

 

「――まず、ヘレンがその姉に宛てた何通かの手紙から始めたらどうだろうか。

 

 これは作品の冒頭一行目でありながら、

 どこにも属していない不思議な言葉だと言える。

 なにがしかの予兆を感じさせはするが、

 作者の語りかけと一概に断定するにしても、

 物語のはじまりとしてはいささか唐突で、

 不作法な言葉に思える」

 

いくつかの小説と作家について、

無教養な素人が思いつきを語ったところで、

何の意味があるというのだろう?

カラマーゾフの三兄弟のフルネームを言えたほうが、

まだ合コンでモテたかもしれない。

 

 

そうこうしているうちに、やっと件の文章が見つかる。

 

イタロ・カルヴィーノ著『なぜ古典を読むのか』(須賀敦子 訳)河出文庫

 

ぜひ読んでみてください。