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世界は一冊の書物に至るか?

「   」にまつわることを、いろいろと。

彼らはなにも気がついていないのだ。

 自分という存在を見つめる能力が著しく欠けているというのに、「自分という存在をデザインできる」「いや、するべきだ」と意識だけを高く持って、それが安易な嘘でしかないことに気がついていないのだ。

屈強なレイシストが牛耳る社会はもちろんロクでもないとは思うが、リベラル・ヒューマニストが無意識に自由の解釈を歪めて、善意の他者を利用するのもまた見るに耐えられたものではない。

嘘を嘘とも思わず、ただ巷で流行っているからといって、社会運動の良心的部分を都合の良いように解釈して取り入れるのは勝手だが、自分の身近な人間をないがしろにしてまで掴みとる理想を、もはや理想と呼ぶことはできない。

 

われわれはもっと考えるべきなのだ。

どうしてそれを思ったか。どうしてそれを変えようと思ったか、を。

 

理想は嘘をつくこととは違う。理想はただただ刻苦勉励してにじり寄ることでしか、正体をあらわそうとしない。そして、長い時間をかけて体と心を削っても、理想に手が届かないかもしれないことを、誰かが声にして訴えるべきなのだ。

 「理想に隠ぺいされたり、振り回されたりする人間になってはいけない」と。

はっきり、正確に。

 

だからといって、まったく理想を失った人間になっても、いいものだろうか?

ひとりひとりが理想を失った社会に、生きる価値などないのではなかろうか?

 

その問いかけはおそらく正しい。

 だが、自分の取り分で精いっぱいな現代の大人たちに、果たして本当に理想が成し遂げられると、あなたは本気で思っているのだろうか?

かって理想や希望の象徴だったはずの音楽や映画やアートは今も彼らの栄誉ある王冠であり、政治やマスコミは劇薬として彼らの王国を活気づけてきたわけだが、それはすなわち、彼らの「慰み物」としてしか、有効に機能していなかったことに他ならないのではないだろうか?

 

そうした「慰み物」を体よくまとめた言葉がもたらすものは、確かに有益であり、確かに物質的な富ではあろうが、やはり明日には忘れられて、彼らはまたもや自分の貧しさに飢えはじめるだろう。

見知らぬ世界の見知らぬ他者の言葉が書かれた書物に目を通すという行為は、ある者にとっては無益に等しいが、そこには自分とは違う他者の、自分が知らなかった世界が広がっていると、とりあえずは信じることができる。

自分とは違う他者や見知らぬ世界が、例えば「他者ではなく自分」であり「見知らぬ世界でなかった」としら、あなたが本を読まないという事実は、自分が誰であるかも知ることがないまま死んでいくに等しい行為ではないか。

それを恐怖だと感じない人間に、社会や生活が変えられるはずもない。

 

あなたはまず初めに、誰かにではなく自分に問いかけてみるべきなのだ。

どうしてそれを思ったか。どうしてそれを変えようと思ったか、を。

 

考えはじめるためのはじまりに、あなたは本を読み、誰かとどうしようもなく繋がっていることを知るべきなのだ。