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彼らはなにも気がついていないのだ。
自分という存在を見つめる能力が著しく欠けているというのに、
「自分という存在をデザインできる」「いや、するべきだ」と声だけを大きくして、
それが安易な嘘でしかないことに気がついていないのだ。
屈強なレイシストが牛耳る社会はもちろんロクでもないとは思うが、
リベラル・ヒューマニストが無意識に自由の解釈を狭めて猛り狂う姿もまた、
閉塞感しか感じられない。
巷の言説や流行に煽られて、社会運動やヤフコメに参加するのは勝手だが、
誰かが誰かを暴言や力業でねじ伏せようとするのなら、
それは思想の色に問わず前時代的な蛮行であって、
〈革命〉のイメージはいつまでたっても変わることがない。
われわれはもっと考えるべきなのだ。
どうしてそれを思ったか。どうしてそれを変えようと思ったか、を。
〈理想〉は状況を創作することではない。
理想とはきっと際限なく反復されることでしか正体をあらわそうとしない、
その形式そのものを言うのだろう。
長い時間をかけて体と心を削っても、理想に手が届かず人生が潰えてしまうことを、
誰かが声にして訴えるべきなのだ。
「理想に隠ぺいされたり、振り回されたりする人間になってはいけない」と。
「古典的で、矮小で、消極的でも、理想のために賢明な選択をするべきだ」と。
はっきり、正確に。
だからといって、まったく理想を失った人間になっても、いいものだろうか?
ひとりひとりが理想を描けない社会に、生きる価値などないのではなかろうか?
その問いかけはおそらく正しい。
だが今現在、果たして〈理想〉とはいったいなにを表象していて、
どんな言葉に置き換えられるというのだろう?
言葉の管理者たるマスメディアは、
〈恥と批評〉という安全装置を取り外したことで、
歯止めの利かない大量破壊兵器を間接的にシリアの人々に行使している。
理想そのものだったはずのポップ・カルチャーは、
彼らの〈慰みもの〉となることでかろうじて生き延び、
ジギー・スターダストをユーチューバーと大差ないものにしてしまった。
〈恥と批評〉を忘れた言葉。〈慰みもの〉を体よくまとめた言葉。
それらがもたらすものは、たしかに有益であり、たしかに物質的な娯楽ではあろうが、
やはり明日には忘れられて、彼らはまたもや自分の貧しさに飢えはじめるだろう。
見知らぬ世界の見知らぬ他者の言葉が書かれた書物に目を通すという行為は、
ある者にとっては無益に等しいが、
そこには自分とは違う他者の自分が知らなかった世界が広がっていると、
とりあえずは信じることができる。
自分とは違う他者や見知らぬ世界が、
たとえば「他者ではなく自分」であり「見知らぬ世界でなかった」としら、
あなたが本を読まないという事実は、
自分が誰であるかも知ることがないまま死んでいくに等しい行為ではないか。
それを恐怖だと感じない人間に、
社会や生活の〈理想〉が語れるとは到底思えない。
あなたはまず初めに、誰かにではなく自分に問いかけてみるべきなのだ。
どうしてそれを思ったか。どうしてそれを変えようと思ったか、を。
〈理想〉を言葉に置き換えるために、
あなたは本を読み、
世界と自分がどうしようもなく繋がっている事実を知るべきなのだ。