世界は一冊の書物に至るか?

「   」にまつわることを、いろいろと。

読書という行為は、あらかじめリベラル・ヒューマニズム的に心が開かれた――つまり、いつでも自分の信念を書き換えることのできる――読者へと向けられた閉鎖性を、パラドックスとして保持している。

 

テリー・イーグルトンが解釈学の概観として記したのは、そんな明快なスタラテジーだ。彼は文学の問題を神秘主義の祭壇に奉ることをよしとしない。だからといって「文章読解」という意味にとらわれた、頭でっかちな理論的態度にも批判をもっている。彼は芸術や学問の枠に、文学をおさめようとはしていない。重要視して感じられるのは、真正の文学者や哲学者が敬遠して語るところの、有機的統合体としての文学。つまり「社会」の問題に自覚的な部分だ。

 

文学制度を打破することは、ベケットに関するこれまでとは異なる評論を書けばそれですむというものではない。文学制度を打破することは、文学と、文学批評、そして文学批評を支える社会的価値、それらが定義される方法に、根底からゆさぶりをかけてやることなのだ。
テリー・イーグルトン『文学とは何か』

 

 

この、ややアジテート気味の論を、すこしながら心配する向きもあるかもしれないが、むしろ重要なのはその前文だ。

 

私がこれまでおこなってきた文学理論の解説のなかでつとめて示そうとしたことは、文学理論のなかにはもはや文学観というだけではすまされぬ多くのものが懸けられているということだった――文学理論を特徴づけ、それを支えるのは、社会的現実に関する多かれ少なかれ確定的な読解なのである。そしてこうした読解にこそ、言葉の真正の意味から、まさに罪があるのだ。そう、労働者階級を鎮定するというマシュー・アーノルドの慈父のごとき試みから、ハイデカーのナチズムへと、綿々と続くこの読解に。

 

 

西洋の罪、エリート的学問主義の極致に対する、敬虔で自覚的なこの態度は、知性と知性行為の分離をはっきりと意識した、目の覚めるものだ。決して軍人だけが人を殺すわけではなく、学者もまた人間性を剥ぐという意味合いで、知らずに人の心を殺しているのだ。だからこそ、架けられた橋を下ろさないために、われわれはもう一度、アウエルバッハの言葉を借りて、立ち返らなければならない。

 

さらにはこの書が、われわれのヨーロッパの歴史に対する曇りない愛情を保ちつづけてきた人々を、再び一つに結ぶためのよすがともならんことを。
エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』

 

 

偉大なるヨーロッパ人文主義の伝統。最後の光芒のひとり。アウエルバッハが終始学問の立場から記したこの一冊の書物は、なぜか最後にコスモポリタン的視野に立つ言及において締めくくられる。そしてこの言及が、ナチズムの台頭によりドイツからトルコへと追放された中で記された言葉だとわかれば、書物と文学の意味は良くも悪くも変わってくる。

 

文学はどこまでも、それが言葉をあつかうという一点において、社会からは逃れられない。